沖縄のローカル番組で基地問題の話題があがると、必ず出てくるのが50年以上前に起きた『宮森小学校墜落事故』です。

私が生まれる前の事故なので、テレビや新聞などでしか詳細はわかりませんが、50年経った今も苦しんでいる人がいます。

たまたま見たテレビで顔にとても大きな火傷のあとが残った男性が、当時のことを辛そうに悲しそうに悔しそうに話されている姿が映しだされたとき、この事故の凄まじさを物語っていると感じました。

本当は思い出したくもないと言っていましたが、二度と繰り返してはならない事故、そして忘れてはいけない事故だということを知ってほしいと涙ながらに訴えていました。

私も何となくしかわからなかったこの事故ですが、調べる中で基地反対を訴える人の気持ちが、どのようなものなのか知りたいと思いもう少し詳しく調べてみることにしました。

1959年6月30日石川市(現うるま市)台湾から嘉手納基地に戻ってきた米軍機が、整備不良が発見されたため直し試験飛行している最中に、操縦不能に陥りました。

操縦士は、パラシュートで脱出できたのですが、米軍機は当時ミルク給食の時間だったため、ほとんどの生徒がいた宮森小学校に墜落しました。

校舎の屋根に衝突しコンクリートに直撃したため、炎上を引き起こしその火災によって小学生11人・住民6人計17人の死者が出ました。

他にも210人の重軽傷者、校舎や近隣の民家なども半焼するという大惨事になったということです。

死者の中には、火だるまになり水のみ場まで走って行ったが、そのまま息絶えた児童の姿もあったそうです。

職員室の前には、男の子か女の子かわからないぐらいに、焼けた児童が倒れていたそうです。

頭の方から真っ赤な血を流し誰が見ても、もう助からない児童を泣きながら抱き抱えていた先生がいたそうです。

重油をかぶり足の皮が剥げ、痛い痛いと泣き叫ぶ児童がいたそうです。

現場は、まるで地獄絵図。

そんな光景を想像するだけで、とてもいたたまれない気持ちに陥ります。

当時の状況を目の当たりにした、多くの児童や先生たちそして近隣住民は、今もなおトラウマを抱えており、毎日のように飛行練習をする米軍機の音に、怯え眠れなかったり不安を感じたりして、安定薬が手放せないでいる人もいるそうです。

何十年経っても、あの凄惨な悲劇は、心の中から消えることはないそうです。

やはり米軍機によって、このような辛い体験をした人の多くが、反対の意思が強くなるのも、今回調べてみてわかる気がしました。